冷戦の緩和

― デタントと米中接近 ―

1行まとめ

核戦争の危機を経験した米ソは対立緩和へと転じ、中国を含む新たな国際関係の再編が進んだ。


基本情報

項目内容
時代1960年代後半〜1970年代
冷戦段階緊張緩和(デタント)
中心テーマ核軍縮・外交関係改善
重要地域米国・ソ連・中国
特徴多極化の進行

年表

出来事
1964中国、原爆実験成功
1968核拡散防止条約(NPT)
1969中ソ対立の表面化
1971ニクソン・ショック
1972ニクソン訪中
1972SALTⅠ調印
1975ヘルシンキ宣言

デタント(緊張緩和)の内容

観点内容
軍事核兵器制限交渉
外交首脳会談の活発化
思想平和共存
背景核戦争回避の必要性

米中接近の構図

要素内容
背景中ソ対立
主導ニクソン大統領
成果国交正常化への道
影響冷戦の三極化

覚えるべき重要キーワード一覧

  • デタント(緊張緩和)
  • 核拡散防止条約(NPT)
  • 戦略兵器制限交渉(SALT)
  • 米中接近
  • 中ソ対立
  • ニクソン訪中
  • ヘルシンキ宣言

【詳しい解説】

1962年のキューバ危機は、核戦争が一瞬で現実化しうることを世界に示した。この経験を経て、米ソ両国では「対立を維持しつつも、無制限な軍拡競争は危険である」という認識が広がり、冷戦は新たな段階へと移行していく。

1960年代後半になると、米ソ双方は核兵器を大量に保有するようになり、これ以上の増強は軍事的優位をもたらさないだけでなく、経済的負担を増大させた。こうした状況のもとで進められたのが、戦略兵器制限交渉(SALT)である。1972年に締結されたSALTⅠでは、弾道弾迎撃ミサイル(ABM)の制限が合意され、核戦力の無制限拡大に歯止めがかけられた。

同時期、中国の存在が国際政治で急速に重要性を増していった。1964年に中国が原爆実験に成功すると、冷戦は単なる米ソ二極構造では捉えられなくなった。さらに、社会主義陣営内部では中ソ対立が深刻化し、1969年には両国の国境紛争が武力衝突に発展した。

この中ソ対立を巧みに利用したのがアメリカである。ニクソン政権は中国との接近を図り、1972年にニクソン大統領自身が訪中した。これは冷戦史上画期的な出来事であり、敵対していた両国が対話を開始したことは、国際社会に大きな衝撃を与えた。この米中接近によって、冷戦構造は米・ソ・中の三極構造へと変化していく。

また、1968年に調印された核拡散防止条約(NPT)は、核兵器の拡散を防ぎ、核保有国の増加を抑えることを目的としたものであった。完全な軍縮には至らなかったものの、核管理を国際的に進める枠組みが形成された点で重要である。

1975年のヘルシンキ宣言では、ヨーロッパにおける国境の不可侵や人権尊重が確認され、東西対立の中でも協調の可能性が示された。こうして冷戦は「全面対立」から「管理された対立」へと性格を変えていった。


全体のまとめ

冷戦の緩和は核戦争回避という現実的必要から生まれ、米中接近によって国際秩序は多極化へと進んだ。


論述問題

問1

デタント(緊張緩和)が進展した背景を説明せよ。

模範解答

核兵器の大量保有によって全面戦争が現実的な危機となり、軍拡競争の経済的負担も増大したため、米ソは対立を管理し核戦争を回避する必要に迫られたからである。


問2

米中接近が冷戦構造に与えた影響を説明せよ。

模範解答

中ソ対立を背景にアメリカが中国と接近したことで、冷戦は米ソ二極構造から米・ソ・中の三極構造へと変化し、国際関係の流動化が進んだ。

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