(794年 〜 10世紀前半ごろ)
1行まとめ
律令国家の枠組みを保ちながら、貴族中心の政治と日本独自の文化が形づくられていく時代。
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 時代 | 794年〜10世紀前半 |
| 都 | 平安京(現在の京都) |
| 政治 | 天皇中心 → 貴族政治へ |
| 特徴 | 律令制の形骸化、貴族社会の成立 |
| 主な人物 | 桓武天皇、坂上田村麻呂、嵯峨天皇 |
| 次の展開 | 摂関政治の成立 |
年表(流れを把握)
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 794年 | 平安京遷都 |
| 797年 | 坂上田村麻呂、征夷大将軍に |
| 810年 | 薬子の変 |
| 894年 | 遣唐使の停止 |
| 10世紀 | 荘園の拡大、地方支配の変化 |
詳しい解説(時系列で理解する)
平安京遷都の意味 ― なぜ奈良を離れたのか
794年、桓武天皇は都を平安京に移します。
これは単なる地理的移動ではありません。
奈良時代後半、
- 大寺院の僧侶が政治に介入
- 貴族間の対立が激化
- 天皇の権威が揺らぐ
という問題がありました。
桓武天皇は、
- 仏教勢力の影響を断つ
- 天皇主導の政治を立て直す
ために、新都建設を決断します。
軍事と地方支配 ― 蝦夷征討
平安時代前期、国家の大きな課題の一つが東北地方の統治でした。
東北には、
- 朝廷に従わない人々(蝦夷)
が存在し、支配が及んでいませんでした。
そこで派遣されたのが、
坂上田村麻呂です。
彼は征夷大将軍として軍事行動を行い、
- 軍事的制圧
- 懐柔政策
を組み合わせ、朝廷の支配を広げました。
この過程で、
- 武力を持つ地方勢力
- 後の武士につながる存在
が徐々に育っていきます。
律令制の維持と現実のズレ
制度上、日本は依然として律令国家でした。
しかし現実には、
- 班田収授法が機能しない
- 税を逃れる農民の増加
- 地方官僚の私的支配
が進みます。
結果として、
- 公地公民制は形だけ残る
- 実質的には土地の私有が拡大
していきました。
貴族政治の始まり ― 天皇と側近
平安時代前期の政治は、
- 天皇
- 天皇の近臣(貴族)
によって行われます。
特に重要なのが、
天皇の身近で政務を行う立場です。
これにより、
- 血縁や家柄
- 天皇との距離
が政治的影響力を左右するようになります。
後の藤原氏の台頭は、この流れの延長線上にあります。
遣唐使停止と日本文化の成熟
9世紀末、日本は大きな転換を迎えます。
894年、遣唐使が停止されます。
理由は、
- 唐の衰退
- 航海の危険
- 日本国内制度の成熟
これにより、
- 中国文化の模倣から脱却
- 日本独自の文化形成
が進みます。
この動きは、
後の国風文化へとつながっていきます。
平安時代前期の歴史的意義(全体まとめ)
平安時代前期は、
- 律令国家の枠組みを保った最後の時代
- 貴族政治が本格化する準備段階
- 武士と日本文化の萌芽が見られる時代
でした。
制度と現実のズレが、
次の摂関政治・武士の台頭を生み出します。
論述問題
問1
桓武天皇が平安京に遷都した目的について、奈良時代の政治状況と関連づけて説明せよ。
模範解答
奈良時代後半には大寺院の僧侶が政治に強い影響を与え、天皇の権威が揺らいでいた。桓武天皇はこれを問題視し、仏教勢力から距離を置いた新都・平安京に遷都することで、天皇中心の政治体制を立て直そうとした。
問2
平安時代前期に律令制が形骸化していった理由を、土地制度と地方支配の観点から説明せよ。
模範解答
班田収授法が機能しなくなり、農民の逃亡や税負担の増大が進んだことで、公地公民制は維持できなくなった。また、地方官が私的に土地や人々を支配するようになり、律令制は制度上は残りながらも実態を失っていった。


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