建武の新政と南北朝時代

(1333〜1392年)

1行まとめ

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇が天皇中心政治(建武の新政)を行うが失敗し、足利尊氏が室町幕府を開き、南北朝の内乱を経て武家政権が安定した時代。


基本情報

  • 時期:1333年(鎌倉幕府滅亡)〜1392年(南北朝合一)
  • 中心人物:後醍醐天皇、足利尊氏、足利直義、楠木正成、新田義貞、北畠顕家
  • 主な出来事:
    • 鎌倉幕府滅亡
    • 建武の新政
    • 足利尊氏の離反
    • 室町幕府成立
    • 南北朝の対立
    • 明徳の和約(南北朝合一)

年表

  • 1333年 鎌倉幕府滅亡(新田義貞が鎌倉攻撃)
  • 1333年 建武の新政開始
  • 1336年 足利尊氏、京都に入り室町幕府を開く(北朝を擁立)
  • 1336年 後醍醐天皇、吉野へ移る(南朝成立)
  • 1338年 足利尊氏、征夷大将軍に任命される
  • 1350〜52年 観応の擾乱(尊氏と直義の対立)
  • 1392年 明徳の和約(南北朝合一)

比較表:建武の新政と室町幕府

項目建武の新政室町幕府
政治の中心天皇将軍
支持基盤公家中心武士中心
恩賞政策不公平・不満多い武士に所領安堵
結果約3年で崩壊約240年続く

覚えるべきキーワード一覧

  • 建武の新政
  • 記録所・恩賞方・雑訴決断所
  • 足利尊氏
  • 北朝・南朝
  • 吉野
  • 守護大名
  • 観応の擾乱
  • 明徳の和約

詳しい解説

① 鎌倉幕府滅亡と後醍醐天皇の構想

14世紀初め、鎌倉幕府は御家人の経済的困窮や幕府政治の硬直化により弱体化していた。元寇後、御家人は十分な恩賞を得られず不満を強めていた。

後醍醐天皇は、武士ではなく天皇が直接政治を行う体制(親政)を目指し、倒幕を計画する。しかし一度は失敗し、隠岐に流される。やがて幕府討伐の機運が高まり、足利尊氏や新田義貞ら武士が倒幕側につく。

1333年、新田義貞が鎌倉を攻撃し、鎌倉幕府は滅亡する。


② 建武の新政(1333〜1336)

後醍醐天皇は京都に戻り、天皇中心の政治を開始する。これを建武の新政という。

政治機関として、

  • 記録所(政務全般)
  • 恩賞方(恩賞の配分)
  • 雑訴決断所(訴訟処理)

などを設置した。

しかし問題が発生する。

  • 恩賞が公家や側近に偏る
  • 武士の功績が十分評価されない
  • 土地配分が混乱

武士たちは「命がけで戦ったのに報われない」と不満を抱くようになる。


③ 足利尊氏の離反と室町幕府成立

足利尊氏は当初、倒幕側だったが、次第に後醍醐天皇と対立する。

1336年、尊氏は京都を制圧し、光明天皇を擁立(北朝)する。後醍醐天皇は吉野へ逃れ(南朝)、ここに南北朝の対立が始まる。

1338年、尊氏は征夷大将軍となり、室町幕府を開く。

室町幕府は武士を基盤とし、守護を強化しながら支配を広げた。


④ 南北朝時代(1336〜1392)

日本には2人の天皇が存在する異常な状態が続く。

  • 北朝(京都):足利尊氏が支援
  • 南朝(吉野):後醍醐天皇系統

各地で武士が南北に分かれて戦う。

代表的な南朝側の武将:

  • 楠木正成
  • 北畠顕家
  • 新田義貞

さらに室町幕府内部でも対立が起きる。
観応の擾乱(1350〜52年)では、尊氏と弟の直義が争い、幕府の基盤が揺らぐ。

しかし最終的に幕府側が優勢となり、1392年、明徳の和約により南北朝は合一する。


⑤ 守護大名の成長

南北朝の戦乱を通じて、守護は軍事・警察権だけでなく、土地支配も拡大した。

  • 半済令(荘園収入の半分を軍費に充てる)
  • 守護請(守護が荘園管理)

これにより守護は地域支配者へと成長し、後の戦国大名へつながる。


全体まとめ

  • 鎌倉幕府滅亡後、天皇中心政治を目指したが失敗。
  • 武士中心の室町幕府が成立。
  • 南北朝の対立は約60年続いた。
  • 戦乱の中で守護大名が力をつけ、武家社会が深化した。

この時代は「天皇政治の最後の挑戦」と「武家社会の確立」という大きな転換点である。


論述問題

問1

建武の新政が短期間で崩壊した理由を、武士との関係に着目して説明しなさい。

模範解答

建武の新政は、後醍醐天皇が天皇中心の政治を目指したが、倒幕に貢献した武士への恩賞配分が不十分であったことが最大の原因で崩壊した。恩賞が公家や側近に偏り、武士の所領問題も混乱したため、不満が高まった。その結果、足利尊氏が武士の支持を得て離反し、室町幕府を開いたため、新政は短期間で終わった。


問2

南北朝の動乱がその後の日本の武家社会に与えた影響を説明しなさい。

模範解答

南北朝の動乱により各地で戦乱が続き、守護は軍事権だけでなく荘園支配にも関与するようになった。半済令や守護請によって守護は経済基盤を強化し、地域支配を確立した。これにより守護大名が成長し、後の戦国大名へと発展する基盤が形成された。

コメント

タイトルとURLをコピーしました