室町幕府の衰退と応仁の乱

(1467〜1477年)

1行まとめ

将軍家の後継争いと守護大名の対立が原因で応仁の乱が起こり、室町幕府の権威は大きく衰退し、戦国時代への入口となった。


基本情報

  • 時期:1467年〜1477年
  • 主な人物:足利義政、細川勝元、山名宗全
  • 戦い:応仁の乱
  • 結果:京都荒廃、幕府権威の崩壊、戦国時代の始まり

年表

  • 1441年 嘉吉の乱(足利義教が暗殺される)
  • 1449年 足利義政が将軍になる
  • 1464年 将軍後継問題が発生
  • 1467年 応仁の乱が始まる
  • 1473年 細川勝元・山名宗全が死去
  • 1477年 応仁の乱終結

表:応仁の乱の対立構造

陣営主な人物内容
東軍細川勝元将軍義政側
西軍山名宗全有力守護の連合
原因将軍後継争い義尚 vs 義視
結果京都壊滅全国で戦国争乱

覚えるべきキーワード一覧

  • 足利義政
  • 嘉吉の乱
  • 応仁の乱
  • 細川勝元
  • 山名宗全
  • 将軍後継問題
  • 下剋上
  • 戦国時代

詳しい解説

① 室町幕府の弱体化

室町幕府は義満の時代に最盛期を迎えたが、その後次第に弱体化する。

大きな転機となったのが1441年の 嘉吉の乱

将軍 足利義教 が守護大名 赤松満祐 に暗殺された。

これは

「将軍が守護に殺される」

という事件であり、幕府の権威は大きく低下した。


② 足利義政と政治の停滞

第8代将軍 足利義政 は文化を好む人物で、政治にはあまり関心がなかった。

  • 政治は守護大名に依存
  • 幕府の統制力が低下
  • 各地で争いが増える

一方で義政は文化面では大きな功績を残す(後の東山文化)。


③ 将軍後継問題

義政には長い間子供がいなかったため、

足利義視 を後継に決めた。

しかしその後、息子 足利義尚 が生まれる。

すると

  • 義尚派
  • 義視派

で対立が生まれる。

この対立に守護大名が介入したことで、全国規模の争いに発展する。


④ 応仁の乱の勃発

1467年、京都で戦いが始まる。

主な対立:

東軍
細川勝元

西軍
山名宗全

この二人は当時最大の守護大名であり、全国の大名が両軍に分かれた。

京都の市街地で戦闘が起こり、

  • 寺社
  • 公家屋敷

が焼け落ちた。

京都は完全に荒廃した。


⑤ 応仁の乱の特徴

特徴は次の通り。

① 勝者がいない
② 京都中心の戦い
③ 全国に内乱拡大

1473年、

  • 細川勝元
  • 山名宗全

が相次いで死亡。

1477年に戦闘は終わるが、問題は解決されなかった。


⑥ 戦国時代の始まり

応仁の乱の最大の結果は

幕府の権威崩壊

である。

その後、

  • 守護大名が分裂
  • 家臣が主君を倒す

という 下剋上 が広がる。

各地で戦国大名が登場する。

代表例

  • 北条氏
  • 今川氏
  • 武田氏
  • 織田氏

このようにして 戦国時代 が始まる。


全体まとめ

  • 応仁の乱は将軍後継争いから始まった。
  • 守護大名の対立が全国規模の戦争に発展。
  • 京都は壊滅状態になる。
  • 幕府の権威は崩壊。
  • 戦国時代へ移行する。

日本史における大きな転換点となった戦乱である。


論述問題

問1

応仁の乱が起こった原因を説明しなさい。

模範解答

室町幕府では将軍の権威が弱まり、守護大名の勢力が強まっていた。第8代将軍足利義政の後継をめぐり、弟の義視と子の義尚の対立が生まれた。そこに有力守護大名である細川勝元と山名宗全が介入し、諸大名が東軍と西軍に分かれて争ったことで応仁の乱が起こった。


問2

応仁の乱が日本社会に与えた影響を説明しなさい。

模範解答

応仁の乱によって京都は大きく荒廃し、室町幕府の権威は大きく低下した。その結果、守護大名の支配が崩れ、家臣が主君を倒す下剋上の風潮が広がった。各地で戦国大名が登場し、日本は戦国時代へと移行した。

コメント

タイトルとURLをコピーしました